阿呆のドンフリー【第1話】

電車がのんびり走っているから間に合いそうにありません。

いつもは時速150kmで通過していた駅が、じつはただの一枚絵であることに気がつきました。チカチカと不規則に点滅する自動販売機だけが本物で、どうやらベニヤ板に穴を開けてそこからちょこんと顔を出しているようなのです。観光地によくあるやつです。誰しもがスーパーヒーローにだって、富士山にだってなれるのだから、もしかすると誰しもが自動販売機になることもできるのかもしれません。

ここは満員電車です。半分くらいの人はスルメみたいに細いネクタイをして、口を開けたまま目を閉じています。もう半分は俯いてスマホを眺めています。他人のスルメをしゃぶっている人もいます。ちょっと生臭いですが、もう慣れました。それに不快なにおいという訳でもなく、むしろどこか食欲を掻き立てるようなところがあります。朝ごはんを食べずに家を出たからかもしれません。

僕の隣にいる男性は、その隣で眠り込んでいるなで肩の女性を台にしてパソコンを広げ、まるでキーボードに恨みがあるかのように力んで「お世話になっております。」と書いています。でも句点を打つと顔を顰めてその文字列を消し、「お世話になります。」に書き換えます。

隣の車線では、カメムシが一列になって行進しています。ラッパみたいな鈍く光る金色の楽器を抱えて、歩調を合わせて進んでいきます。僕が目にしているのは、長い列の中盤だと思います。おじさんたちの太い身体の隙間に顔を突っ込んで車窓から前方を眺めると、ひときわ大きなカメムシが、先頭でリズム良く旗を振っている姿が見えます。カメムシは踏切で停止する必要がないから、この電車と同じ速度で進んでいるはずなのに、気がつけば数時間前に目を合わせたかわいらしいカメムシが、僕のいる場所よりずっと遠くで、ただの点になってしまっています。

突然変な音がして、電車が大きく揺れました。「線路上に障害物が確認できたため、緊急停止いたしました。お急ぎのところ電車が遅れ、申し訳ありません」いつもは炬燵でくつろいでいるかのように落ち着いた低い声を発する車掌さんの声が、心なしか上ずって車内に響きます。下を向いていた乗客たちは揃って車窓に目をやり、窓一面に広がっている砂屋敷を数秒間見つめると、一斉にスマホを取り出して何やら文字を打ち込みます。

電車が遅れています。申し訳ありません。電車が止まりました。申し訳ありません。間に合うべく善処します。申し訳ありません。急ぎ対応を考えます。申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありません。もうしえあけありません。申し訳ありません。

馬面の車掌さんが、慌てた様子で車内をかき分け前へと進んでいきます。無線機で同僚と通話しているようで、その会話が聞こえてきます。

「カメムシを撥ねたって本当ですか?」

「まだわかりません。今遺体を確認してるところです」

受話器越しに漏れ聞こえてくる低く落ち着いた声は、まるで縁側で将棋でも打っているかのようです。あれは車掌さんの声かしら。

「復旧する? 予定は?」

「それもわかりません。とにかく血が流れ続けていて、ほとんど海みたいになっているのです」

のんびりと走るこの電車には、その進行する先に真っ赤な海が待っている。僕はその情景を頭に浮かべます。僕が想像したその景色が実際のものであったならば、この電車は決してあなたのいる場所に到達することはないでしょう。そうだとしたら、ここに書いているささやかな記録も、誰にも届かない言葉として封印されるほかありません。

「なんとしても動かさないと」車掌さんは無線機をポケットにしまい、僕の真横で立ち止まると、誰にいうでもなく小さくそう呟きました。

「何か手伝えることはありますか」僕はほとんど無意識のまま、車掌さんに言いました。車掌さんは一瞬びっくりしたようで、顔の筋肉をこわばらせて僕の目をまっすぐ見つめます。「手伝う?」

「手伝うといっても、何をしたらいいのかわからないけど」

「ちょっと待っていてください」車掌さんはそう言うと、大きな体を人混みの中で器用に折り曲げながら前方へと歩いて行きます。僕は周りにいる乗客たちの姿をチラと見ます。彼らは皆スマホを凝視しながら、無機質な表情でじっと黙り込んでいます。

長い時間が経ちました。朝と夜が幾度も交代し、大雨が降ることもあれば、緑色の砂が電車をすっぽり包み込んでしまうこともありました。灼熱の日差しが照りつけ、ピンク色の雪が降ったこともあります。気がつけば乗客の半分は干からびてしまい、中には骨を剥き出しにしたまま、スマホを握りしめている人もいます。

僕はじっと待っています。これまでも乗っている電車が止まることはしばしばあったのですが、カメムシを轢いたという理由で停止したことはありません。それに僕はただの乗客です。電車を動かすために、僕ができることなんて何も思いつかないのです。だから僕は車掌さんが帰ってくるのを待つことしかできません。ごめんなさい。


つづく

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